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風のいちにち

さくらの季節は少し苦い 

2010.04.02


     東京で過ごした最後の数年間は、都心の、緑あふれる大きな公園のそばに住んでいた。

     家から職場までは電車に乗れば10分、公園を抜けて歩けばたった30分だった。

     緑が多くて通勤が楽。都会にいながらにしてそんな場所に住むことは長いあいだの

     憧れだったので、部屋の広さや日当たりや月々の経済的な負担と引き換えに

     その場所を選んだ。

     毎朝毎晩繰り返される、あの殺人的な満員電車ともおさらばだ。

     光を浴びたければあの公園に行けばいい。

     自分にできるだけの精一杯だった。 もうそれ以上、求めるものはなかった。 
    

sakurano


     その場所に越してから、私は恵まれた環境を堪能すべく頻繁に徒歩通勤をした。

     豊かな木々がつくりだすほとんど森のような空間のおかげで、ことに朝の空気は清々しかった。

     広大な敷地でジョギングするひと、犬の散歩をするひと、自転車で駆け抜けるひと、

     ベンチで休むひと、発声練習をするひと、そして私のように公園を抜けて職場に向かうひと。

     それも朝はまばらで、私は冷たくて透明な空気を胸いっぱいに吸ってから

     雑踏の中に突入して行った。

     春にはチューリップを横目でみながら、赤や黄色の小さなバラがつくるアーチをくぐった。

     青くひろがる芝生は、夜のうちに水分をたっぷり含んで光っていた。

     夏には噴水に虹が浮かび、秋は空高くまっすぐのびた銀杏の木々の間からまっすぐ

     降り注ぐ光の帯の中、靴の汚れを気にしながらも黄色のじゅうたんの上を大股で歩いた。

     冬の朝はひとの数はさらに減り、ぴんと張った空気の中を息を白くして走るランナーを

     目でおいかけながら少し速足で通り抜けた。

     もちろん徒歩通勤しなかったときもある。

     それは寝坊したとき、日傘をさしても5分で汗が噴き出す真夏日、嵐の日、

     そして3月後半から始まるお花見の季節だった。


     公園の木々の緑がこれ以上望めないくらい濃くなって匂い立ち、桜のつぼみが

     膨らみ始めると、私は心躍る半面少しずつ憂鬱になっていった。

     またあの季節がやってくる。

     初めての年は、何事があったのかと目をうたがった。

     あれは3月後半だったか、暖かい週末が明けた月曜日の朝、いつものように公園の

     門をくぐってゆるやかな坂を上り、アスファルトの歩道を避けて土の感触を味わいながら

     木立を歩いていると、いつもとは違った不穏な気配が漂ってきた。

     いや、ほんとうは門をくぐったときから感じていた。 気付かないふりをしていただけだ。

     いつもはそこにないはずのもの、まわりと決して交わることのないもの、それがひとつまたひとつ

     目に入っていた。


sakurano2

 

     風にころげて走る白いビニール袋、ちぎれた紙袋、空のペットボトル。

     そういうものが朝のぼうっとした頭の中で少しずつ現実味をおび、やがてはっきりとした

     存在になっていく。 歩く視線の先、ゴミ箱があるはずの場所を見上げる山のピークとして、

     無数のひしゃげた白茶色赤黄色の紙袋やビニール、空き缶、びん、紙コップ、割り箸、

     食べ散らかされたゴミゴミゴミ。 週末の宴の残骸。

     風でとばされたのか、それとも昨日の夜からそこに放置されているのか、そういうものが

     大量に、静かな朝の公園に散乱している。

     それは、小さく可憐な白やうすいピンクの花を満開にした桜の木々の下、みるも無残な

     風景だった。

     普段は遥か上から遠巻きにこちらを見下ろす、この公園をねぐらにしているカラスたちも

     もはや人の気配に臆することもせず堂々と地上に降りゴミの上で騒いでいる。

     いつもは見かけないグレーの上下を着た人たちが、これから何時間かかるのか

     わからない果てしない清掃作業に没頭して黙々と行ったり来たりしている。 

      一年のうちで、この季節だけが醜悪だった。


     こんな有様の中でも、桜の木々はいつものようにただ静かにおおらかに根を下ろし、

     今にもこぼれそうな満開の花を抱いている。 私はといえば、心の中は激しく波立って

     とても平常心ではいられない。

     清らかなものと、そうでないもの。

     そうでないもの。 人間である私は、まちがいなくそっち側だな。

     混乱する頭の中でそんなことが浮かんでは消え、逃げるように急ぎ足で通り抜けた。 

     そういう現実を直視することが耐えられなくて、翌日からそして翌年から、この季節は

     公園に近づくことをやめた。

     キタナイものにフタをするように公園に続く道を避け、たくさんの人と車に混ざって

     駅への道を歩いた。 息をひそめ、ただじっとその喧騒の日々が通り過ぎるのを待った。

     そしてやがてテレビで桜の話題が消えたころ、臆病な猫のようにあたりをそろそろと

     うかがいながら久しぶりの門をくぐった。 葉桜の下、そこが私の知っていた場所と同じかどうか

     確かめながらゆるゆると歩き、やがて静かな朝へともどっていく、そういう春を繰り返した。

     だから私は、あの公園の散り始める前のたわわな満開の桜をあれ以来目にしたことがない。

     夜10時のニュース番組の夜桜中継でライトアップされた姿を見ただけだ。

     すぐそこにあるのに。 それはどんなに見事だったろうか。


sakurano3

 

     まだ20代の初めだったころ。

     大人になった時、自然の中に立ったときにそれを壊さないようなひとになっていたいと言った

     友人がいた。 それからずいぶん長く年月が過ぎたが、彼女は都会に住んでいても

     私のように物欲に支配されることもなく、 仕事を続けながらインドに行ったりヨガなどで

     身体のメンテナンスを続けていた。 だらだらと休日を過ごすこともない。

     ここ数年は毎年長期休暇のたびに四国の遍路道を黙々とひとりで歩いているらしく

     今や私よりもずっと、私の故郷について奥深く知っている。

     そんな彼女が森の中に立つ姿を想像してみると、その姿は凛としていて、あの頃の

     あの願いはかなっているんじゃないかなぁと思う。

     私にはとても無理だろう。

     あの美しい公園にゴミを放置した人たちとそんなに変わらないほど、身体にも心にも

     余分なものがいっぱいついてしまっているだろうから。 ならばせめてそのことを忘れないで

     自然の中で、なるべく静かに邪魔することなくやっていけたらと切に願う。


     もし今住む町に桜の咲き乱れる名所と呼ばれる公園があったとしたら、それはとても

     素敵なことだろう。 でもそれと同時にこんなにも待ち焦がれている春の到来は

     私の心を少しかき乱すことになるだろう。

     その場所が、楽しみすぎるひとたちに汚されることがないだろうかといらぬ心配を

     して、花が咲く前から落ち着かない日々を過ごすことになるかもしれない。

     だが幸か不幸か桜の木は、通りすがりにふと立ち止まってそっと楽しむためだけに

     ここに一本、 そしてあそこに一本と、目立たぬようにたたずんでいるだけだ。

     見事な桜並木の下での華やかなイベントも、賑やかな宴もないけれど

     この春も心穏やかに過ごせるであろうことに、私はほっと胸をなでおろしている。
     


     

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愛媛生まれ
大阪→サンフランシスコ→東京→札幌→東京、2008年秋から岩手→2013年春、第二の故郷へ

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